これはまだ自分が医学生だった時のもう10年以上前の話です。何かの打ち上げだったと思うのですが、当時お世話になっていた内科の先生にご飯に連れて行ってもらう機会がありました。その先生は研究の知識が豊富なだけではなく、学生にもとても優しく誠実だったので、自分はその先生のことをとても尊敬していました。なぜか今でもよく覚えているのですが、その先生が飲みながらとある患者さんの話をしました。その患者さんは高齢の女性の患者さんで、その先生が糖尿病の診療で長期にわたって診ていた患者さんらしいのですが、最近進行乳癌が見つかったものの、もう臓器転移しており治療の手立てがないとのことでした。その先生は普段の診療の中で一回も乳房の触診をしなかったことを後悔していると言いながら、目に涙を浮かべていました。当時の自分は、そもそも糖尿病の管理のために通院していたのであれば、乳房の触診をする義務なんてないだろうし、進行癌が見つかったのは残念だとは思うけれど、防ぐことはできないだろうと思いました。そして、そのような防ぐことができなかったであろうことに対して、そこまで責任感を感じて涙を浮かべる先生に対しては、主治医として本当に丁寧に患者と接していたのだろうとさらに尊敬の念を深めたことを覚えています。しかしながら、家庭医/かかりつけ医としてのトレーニングを受けた立場から当時を振り返ると少し異なる感想が浮かびます。その先生がそもそも臓器専門医でありながら、その患者さんの健康全体に責任を持つ、かかりつけ医のマインドを持っていたことは確かに素晴らしいのですが、その先生はかかりつけ医として備えるべき予防医療の正しい知識を持っていませんでした。そしてその知識の欠落の結果、その患者さんに乳癌検診としてマンモグラムをリマインドする(そもそもその先生に欠けていたのは触診の習慣ではありません)ことができませんでした。もし知識があれば、その乳癌を早期発見し、進行癌を防ぐことは可能だったのかもしれないのです。僕はその先生のことを後出しじゃんけんで責めているわけではありません。正しい予防医療の知識がなかったことはその先生だけの責任ではないし、むしろ日本の医療システムや教育システムによるところが大きいのではないかと思うのです。
そもそも予防医療(ヘルスメンテナンス)とは
予防医療・ヘルスメンテナンスは、健康を維持・増進するために医療者が患者に対して積極的に行う推奨・勧奨のことであり、スクリーニング、カウンセリング、予防接種、予防的内服に分類されます。乳癌検診(マンモグラフィー)、大腸癌検診(便潜血検査)などの癌検診はスクリーニングの代表例として思いつく方は多いと思いますし、また禁煙指導などのカウンセリング、インフルエンザワクチンなどの予防接種、また妊婦に対する葉酸などの予防的内服も予防医療(ヘルスメンテナンス)の一部に含まれます。プライマリケアで働く医師は、患者が現在持っている症状や病気だけではなく、患者の年齢や性別、その他のリスク因子に注目して、その患者の健康を維持・増進するために必要な予防医療にも取り組んでいく必要があります。しかしながら、医学部での卒前教育や現在の初期研修では、外来で継続的に患者を診療するという機会がないため、予防医療を学ぶ機会が乏しいのではないかと思います。結果として、予防医療の知識に乏しいまま、なんとなくかかりつけ医として患者の診療を行っている先生方も多いのではないでしょうか?
日本にはかかりつけ医のはっきりした定義がない
日本のプライマリケアで、かかりつけ医が患者に予防医療を推奨できない理由を考えてみたのですが、まず第一に日本ではそもそも何をもってその医師や患者を、かかりつけ医あるいはかかりつけの患者としてみなすか、という共通理解や社会通念がないということがあげられると思います。仮に患者が高血圧という病気のため、とある医師にかかっていて、患者はその医師が自分のかかりつけ医だと思っていたとしても、もしかしたらその医師は患者の血圧管理には責任を持っていても、患者の健康全体には責任を感じていないかもしれません(この場合はその医師はかかりつけ医ではありませんが、患者が勘違いしているということになるかと思います)。逆も然りで、もしその医師が自分のかかりつけの患者だと認識していたとしても、その患者はその医師以外にも多数の医師に受診していて、特定の医師に自分の健康全体を管理して欲しいとは思っていない、ということもあるかもしれません。米国では患者がプライマリケア医を受診した場合は、基本的には自動的にその患者はその医師・クリニックのかかりつけの患者になるのですが、日本では、医師と患者の間に『かかりつけ』という関係が構築されるために何が必要なのかということがはっきりしていません。このように『かかりつけ医』というシステムがビルトインされていない社会では、そもそも『かかりつけ医としての責任』が生まれない可能性があります。繰り返しですが、予防医療は患者が現在持っている症状や病気にフォーカスするものではなく、あくまでもその患者の未来の健康維持・増進のためのものなので、その患者の健康全体に対して、『かかりつけ医としての責任』を感じない限りは、そもそも予防医療を推奨しようという考え自体が浮かびづらいです。このような状況では、プライマリケア医がおせっか医となって、『私がその患者のかかりつけ医である』と前のめりで患者に接していくことがとても大切だと思います。たとえ患者側がこちらをかかりつけ医だと認識していなくても、引かれない程度のおせっかいを少しずつ加えていけばよいのです。こちらがその患者をかかりつけの患者だと認識しさえすれば、予防医療は提供できます。だからこそ、まずは自分がその患者のかかりつけ医であるという責任感を持つことが第一歩で、その責任感を持った上で、予防医療の知識を身につけるというのが正しい順番だと思います。
日本では予防医療は自治体や企業に任せられてきた歴史がある
そもそも日本ではかかりつけ医ではなくて、自治体や企業によって予防医療が行われてきたという歴史があると思います。医師が患者に推奨しなくても、そもそも健診や人間ドックが自治体や職場で自動的に行われているため、かかりつけ医が患者の予防医療に責任を持つ、という考え自体がなかなか浸透しづらいかもしれません。自治体や企業で予防医療に対する支援や規則があることは素晴らしいことだと思います。しかしながら、会社で実施される健診や人間ドックから漏れてしまう人は少なからずいるだろうし、そもそもメンタルヘルスのスクリーニングや、禁煙などのカウンセリング、予防接種などは比較的高価な人間ドックでもその内容に含まれていないかもしれません。なので自治体や企業に任せっぱなしになるのではなく、かかりつけ医としてその患者の予防医療の項目をチェックすることは、必要な予防医療の漏れを防ぐためにもとても重要なことだと思います。
エビデンスのあるヘルスメンテナンスの推奨の重要性
また、日本では腫瘍マーカーや炎症マーカーなどスクリーニングの意義に乏しい検査が予防医療の一部として実施され、医療現場の負担を増やしていることがあると思います。自分も日本で働いていた時は、何も症状はないが検診で腫瘍マーカーを測定した結果微妙に数値が上がっています、みたいな紹介をよく受けていました。結局、画像検査で確認せざるを得ないのですが、不要な検査を行っているように感じて気持ちが落ち込んでしまうことがよくありました。そもそも、予防医療は病気の治療とは異なるので、費用対効果の話が難しいです。自分もまだ勉強中なのですが、予防医療を議論する時は基本的には個人ベースの話ではなく人口ベースの話になります。仮に人間ドックの腫瘍マーカーの測定から癌が見つかった人がいたとして、それはあくまでも個人の話です。その検診の項目を個人だけではなく、何十万人、何百万人に行った際にどれだけの影響があるかを考慮する必要があります。検査の費用がどれだけかかるのか?どれだけ検査の偽陽性が生じ、その結果不必要な検査が行われるのか?最終的にどのような利益(死亡率の減少など)が得られたのか?などのさまざまな情報を全て吟味した上で、果たしてその検診を推奨するのかどうかという決断をするわけです。このような評価をとても保守的な観点から行っているのが米国のUSPSTFです。なので、USPSTFでGrade AやGrade Bとして推奨されている検査は、予防医療のプロの厳しい目で見ても推奨されているという意味を持つので、多くの医療者が最低限USPSTFで推奨されていることは遵守しよう、と考えています。日本の診療現場でも、USPSTFの推奨を一つの参照軸として持っておくことは、不要な検査を避け、意義のある検診を患者に届けるための助けになります。かかりつけ医として、どのような予防医療の検査がエビデンスに基づいて推奨されているのか、を知ることは大切です。そしてエビデンスがはっきりしない検診については、その旨を患者にしっかりと伝えて、患者が正しい予防医療を選択できるようにナビゲートしてあげることも、日本においてはかかりつけ医の大切な役目の一つだと思います。
米国での予防医療の実際について
これまで日本のことを話してきましたが、現在自分が働いているアメリカのプライマリケアにおける予防医療について話したいと思います。アメリカでは患者に対して、適切な検診を推奨することはかかりつけ医の責任です。特に死亡率を減らすエビデンスが確立されている癌検診、例えば大腸癌や乳癌などについては、かかりつけ医が必要なタイミング(通常は年に1回の予防医療の受診)で検診を推奨しておらず患者に進行癌が見つかった場合、もし訴訟になれば医師側が負ける可能性が高いです。かかりつけ医として果たすべき責任を果たさなかったとみなされるからです。もちろん、検診を受けるかどうかは患者の自由なので、患者がスタンダードな検診を拒否した場合は、その旨をカルテに記載しておく必要があります。”Refused”という言葉を使うと少し語気が強いので、自分は通常”The patient declined colon cancer screening”のようにカルテに記載しています。日本では一部の項目は公費のサポートがありますが、通常検診の項目は自費診療となり人間ドックという形で個人で高いお金を払って検査を受けることも多いと思うのですが、米国では予防医療は通常の医療の一部であり、医療保険でカバーされます。その代わりなんでも検査がカバーされるのではなくて、検診により死亡率やその他の重要なアウトカムが改善するというエビデンスが確立している検査項目のみカバーされます。なので、なんとなく毎年心電図をとったり、腹部超音波の検査をしたり、頸動脈超音波の検査をすることはできません。米国での検査は高額なので、保険会社はエビデンスのない検査項目にはお金を払おうとはしません。また、保険会社はエビデンスのある検診項目に対してインセンティブをつけることで、その検査を促すようなシステムを構築しています。代表的なものとして、Quality Indicatorと呼ばれる臨床の評価項目(大腸癌のスクリーニング実施率など)があげられます。米国では、本当に様々な保険会社・種類が存在するのですが、それぞれの保険が独自のQuality indicatorを持っていて、一定の基準を満たすとクリニックにボーナスが支給されます。例えば仮定の話ですが、大腸癌のスクリーニングが基準を満たしたとして、患者一人あたり月に3ドルのボーナスがあったとします(年あたり36ドルになります)。仮にその保険の患者が200人いたとすると、36ドルx200人で年間7200ドルの増収となるわけです。この収入は馬鹿になりません。現在の職場では、そのプロバイダーごとに、かかりつけ医として登録されている患者のQuality Indicatorの達成率が開示されていて、その医師のパフォーマンスが管理されています。あなたが45歳から75歳の患者500人診療しているとして、その500人のうち大腸癌の検診を受けている患者が200人とすると、あなたの患者の大腸癌検診の実施率は40%ということになります。もし、そのクリニックで働く全てのプロバイダーの平均が60%だったとすると、『あなたの患者の大腸癌検診の実施率は低いから、もっと頑張って大腸癌検診を患者に推奨してね』というフィードバックを受けることになります。このような背景もあり、アメリカでは多くの電子カルテで、予防医療の推奨項目のアラートがカルテ内にプラグインされていることが多いです。例えば、大腸癌検診が必要だが、結果が記載されていない患者についてはカルテ内で自動でアラートが出るようになっていて、検診項目が抜けていて、オーダーしないといけないことが視覚的に分かるようになっていることが多いです。ご存じのように日本にはこのような予防医療に対する金銭的インセンティブも、電子カルテに組み込まれた推奨アラートもありません。しかし、冒頭のエピソードが示すように、予防医療を医師個人の記憶や善意だけに頼るには限界があります。だからこそ、個人の責任感を支えてくれる『仕組み』が必要なのです。日本のプライマリケアの現場で、その仕組みを少しでも補える存在でありたいという思いで、次に紹介するウェブアプリケーションを作りました。
予防医療のウェブアプリケーションについて
以上自分の思いを綴りましたが、かかりつけ医としての責任を持ち、正しい知識を持った上で、患者に予防医療を提供していくことはプライマリケアで働く医師の責務だと思います。そして、プライマリケアで働く少しでも多くの先生方に予防医療を実践してもらいたいという熱い気持ちを込めて、この度予防医療のアプリケーション(https://scfm-hm.appspot.com/)を更新しました。このアプリは2021年にリリースされました。自分が当時、このアプリケーションに込めた思いについては昔の記事(http://tsunochan.com/2020/09/04/scfm-hm-application/)をご参照ください。みなさんが見ている患者さんの情報をフォームに入力してもらうことで、その患者さんに対してどのような予防医療の検査が推奨されるか、検索できるようになっています。もう自分が日本の臨床を離れてから約5年が経過し、自分の日本の医療への理解も少しずつ薄くなってきているのですが、滋賀家庭医療学センターのみなさまの助けを得ながらなんとか更新することができました。予防医療の知識についてはこのウェブサイトの推奨一覧から各項目を読んでいただければ大体は把握していただけると思います。自分も予防医療の推奨について批判的吟味を行うトレーニングは受けていないため、このウェブアプリケーションでは、独自にそれぞれの予防医療の項目について推奨レベルを提示するようなことはしていません(そのようなことは自分には残念ながらできません)。その代わりアプリ内では推奨コメントの下にNoteという注釈を添えて、できるだけ日本と米国の異なる学術団体の意見を並列で記載するようにしています。アプリを使ってくれる人がそれぞれの推奨の違いを認識し、もし意欲や能力があれば追加で吟味していただけるきっかけになれる程度の情報は記載できていると思います。様々な学術団体で推奨が異なる場合には、滋賀家庭医療学センターが行っている予防医療の実情に基づいて記載しています。そのような推奨になっている理由を完全に言語化することは難しいのですが、公費による補助が受けられる検査を優先する傾向はあるかもしれません。その点はあらかじめご了承ください。
是非、お使いの電子カルテの横に自分のパソコンを置いて、このアプリを起動し、その患者に必要な予防医療を調べてみてください。みなさまの臨床でこのアプリを役立てていただけたらこれほど嬉しいことはありません。何か不具合や推奨の内容にご意見があればフィードバックいただけると大変ありがたいです。