野の医者は笑う〜心の治療とは何か?〜を読んで

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CFMDの藤沼先生、佐藤先生が企画されたFamily medicine book clubに参加し、野の医者は笑う〜心の治療とは何か?〜についての抄読会に参加した。本がとても面白くて、4時間ぶっ通しで通読した。せっかく時間をかけて通読・議論したので、自分で考えたこと、抄読会から感じたことを記録に残したい。

<本書で印象に残ったこと>

色々あるのだが特に印象に残った点を3点記述する。

  • 純粋に沖縄(一部県外もあり)における野の医者たちの実態を知るのが面白い

 本書は異様な診察室の情景描写から始まる。そこでは医師が、苦玉と呼ばれる患者の不調の原因を見つけ出し、その苦玉が患者のどの先祖から来ているか、患者の眼を見て特定することでその不調を治癒する。この「つかみ」に自分は完全にやられてしまった。このどう考えても「怪しい」治療で、臨床心理士である筆者の不調な患者が良くなってしまったことが、筆者が近代医学の外側で活動している怪しい治療者を「野の医者」と定義し、研究を開始したきっかけとなっている。本の構成が筆者のフィールドワークや分析の過程を時系列で記載される構成なので、「なぜなんだ?」「どうなっているんだ?」「どういうものなのか?」とハテナで頭がいっぱいになりながら、筆者の経験や気づき、思考の変化を追いかけるように、食い入るように読み進めた。
 この研究の中で筆者は百人以上の野の医者たちからインタビューをし、野の医者たちの治療を実際に体験している。そして、その過程を通して、彼らの生態や社会における組織構造が解き明かされている。一部だけ本の内容をかいつまんで記載すると、彼らの多くが何かしら傷を負い、野の医者たちの治療で癒された経験を持つ。そして、自分も野の医者となって誰かを癒すことを決意し、野の医者たちのスクールなどに通いスキルを身に着ける。そして、野の医者としてクライアントを癒す日々を送るが、一方で彼らも傷を負う者であり続けながら、クライアントを癒すプロセスの中で癒され続けている。彼らの中には厳しい社会背景を持ちながら生きてきた経歴を持つ者が多い。本文中の「貧しい家に生まれて、必死に働いてきた学歴のない女性が決まり文句」という彼らの社会背景についての記述が印象的であった。
 また、一部の野の医者たちがカリスマ性や独自性を発揮することで、新たな野の医者を養成する側に回り、スクール業の運営で利益をあげ始める。本書では、とあるインタビュイーの表現を参考に、スクールを運営する側の野の医者をドラゴン、教育サービスを受け取り安い時給でクライアントを見続ける野の医者をトカゲと記載し、彼らのコミュニティーの中における、経済的社会的格差を浮き彫りにしている。
 ただ単に、こんな怪しい治療がありましたよーという報告だけではなく、彼らの社会背景や経済的な構造、歴史にまで踏み込んで記述されている。これは、ただただ興味深いし、面白いとしか表現できない。

  • 野の医者が行う治療=臨床心理学に基づいた心理療法=宗教的介入ではないかという筆者の気づき

 筆者は数々の野の医者の治療を受ける中で、野の医者たちがクライアントに「自分が病み、特別な治療に出会って治癒して、そして今その治療者になって、いかに元気でハッピーなのか」を語ることに気づく。一方で、ドライアイのような不調な症状を持つ筆者は、いくら野の医者たちの治療を受けても症状が改善しない。そこで筆者は、筆者に野の医者たちの治療が聞かなかった理由を「ミラクルストーリーはただの自慢話ではなくて、治療そのものであったのではないか」と分析する。臨床心理士という視点で彼らの物語や施術を見ると、どうしても彼らの物語や治療は「疑似科学やスピリチュアリズムのつぎはぎで陳腐なもの」にうつってしまっていた。医療人類学における説明モデルでは、「治療者と病者が説明モデルを共有して、その説明モデルに基づいて課題に取り組むときに治癒が生じる」と考える。筆者の場合、野の医師たちのミラクルストーリーを話し半分で受け取ってしまっていたため、この説明モデルを満たすことができなかったので治療効果がなかったのではないかと筆者は分析するのである。
 そして、筆者は、野の医者が行う治療と筆者が行う心理療法が同じ概念モデルで説明できてしまうのではないかと気付く。臨床心理士が心理療法で用いる理論は一応臨床心理学という科学の上に成り立っているものの、結局心は「そもそもそれは物質的に存在するかを観察したり、検証したりできるものではない」し、その宗派(ユング派や精神分析家など)によっても、根拠となる理論や診断が異なることがある。なので、大きな目で見れば、ミラクルストーリーも心理療法で用いる理論(例えば、行動療法の条件反射理論)も、患者を説得するためのレトリックであるという点では大差ないのではないか、という考えを抱く。野の医者が思考によって現実が変わることを目指すのに対して、臨床心理学は現実を現実として受け止め、生きていくことを目指す。」点は異なるものの、野の医者のミラクルストーリーも、臨床心理士の診断も「クライアントの生き方に方向性を与え」一つの物語を提示している」点ではどちらも同じである。そして、患者は彼らが提示する治癒の形を自由自在にブリコラージュして自分なりの治癒を組み立てていく。
 また、筆者は野の医師たちが語る「考え方が変われば、世界が変わる」という発想がキリスト教系の思想運動と同じだと述べる(ちなみに仏教でも一緒だと思う)。ここで、野の医者が行う治療≒臨床心理学に基づいた心理療法≒宗教的介入という当初想定しなかった関係性が描出される。

  • では臨床心理学とは一体何なのか?

 この思考過程を通して、筆者は臨床心理学という「権威や制度になっているものを相対化し」「当たり前の価値を揺らがせよう」とすることで「新しい価値を生もうとする学問的行為」を行うこととなる。では野の医師の治療と臨床心理士が行う心理療法は何が違うのか?筆者は臨床心理学が「遠くから客観的に見て考えることができる」「揺れの中で、自らのことを感が抜くことができる」点で野の医師と異なると記載している。筆者はおそらくは、科学として反証可能性を持ちながら議論ができることの重要性を述べているのではないだろうか?「守護霊が見えます、私には確かに見えるんです」と言われたとしても反証のしようがない。ただし、臨床心理学についても、もちろん反証可能性を持った学問であるものの、上で述べたように心なんて誰にも見えないわけだから、もちろん幾分かグレーの部分が残る。なので筆者は本書の最後で「今や私は、臨床心理学を素朴に科学的な心の治療とは考えていなかった」と記載しているのではないだろうか?

<Book club当日の藤沼先生のレクチャー・自分が考えたこと>

 まずは藤沼先生からはこれまでHealingに言及している家庭医の代表として、Ian MacWhineeyとWilliam Millerの説明があった。Ian MacWhineeyは著書の中で、Physicain as a healerとしてモノ・身体レベルでの介入を十分に使いこなせていることに加えて、メンタルレベルでの介入、例えばMeaning of illnessを患者と一緒に書き換える作業について言及している。また、このようなHealerとしての機能を果たすためには、Attention and presenceの必要性を説いており、これはある程度のDistanceを取ろうという一般論とは少し異なるということであった。William Millerは医療人類学のバックグラウンドも合わせ持っており、彼の提唱するclinical handの概念の中にBioenergyという項目があり、藤沼先生は衝撃を受けたとのことであった。William MillerはHealing landscapesという概念も提唱しており、これは地域の至るところでHealingが起きているというモデルである。もし何か患者にポジティブな反応があった際に自分が与えた癒しの影響と考えるのは甘いかもしれないと藤沼先生からコメントがあった。また、William MillerのHealerとしての家庭医育成の取り組みとして、レジデンシーの中で瞑想を取り入れたり、学年が上がる際に儀式的な要素を取り入れたりした試みがあったらしい、、、という話は聞いていて衝撃を受けた。

ここからは自分が考えたことと、当日のディスカッションを聞いていて思ったことを記述する。

  • 家庭医はHealerになりえるのか?

 Healerの定義にはっきりしたものはないが、患者を癒すことができるか、という問いに対しては本日の集まりの中では「できる」と考える人がほとんどだったと思うし、自分もそう思う。藤沼先生が、家庭医にとって癒しのアウトカムは不安の除去であることが多く、ベンゾジアゼピンのような働きをすることができるのではないか、と表現されていたのが印象的であった。
 自分たちがHealerになっていいのか?という論点もあったが、自分はなれるならなった方がいいと思う。毎回ではないものの、家庭医の診療も臨床心理士が行う心理療法と同様に医療人類学における「説明モデル」において患者に癒しを与えることができる状況が多々あると思う。自分がパッと思い浮かんだ例としては、原因不明の疼痛(だいたいの場合他の精神疾患と併発あり)やおそらくは心因性ストレスによる咽頭違和感異常症の人なんかで、「早く原因を突き止めて治さなきゃ」と患者が思っているところを「うまく投薬など調整しながら付き合っていくべき症状」であることを説明したり、軽い適応障害で細かいことが気になることで憂鬱になる人に、「それって本当に悪いことですか?見方によっては几帳面で真面目という良い側面かもしれませんよ」と、なんちゃって認知行動療法みたいなことをやったりしている例である。これらは、まさに説明モデルを用いれば、患者に生き方を与えることで癒しを与えようとしている過程そのものなのではないだろうか。そして、これは結局PCCMの共通の理解基盤(現状の理解、目標設定)のプロセスに当てはまるように思う。ここを丁寧にやれば知らず知らずに患者の癒し(もちろん失敗すれば逆もあると思うが、)につながる可能性があるのではないだろうか?もちろん、自分たちは説明の際にミラクルストーリーを語ることは控えるべきで、あくまでも臨床心理士が臨床心理学を基盤とした説明を行うように、家庭医療学・内科学をメインとした科学の上で考えうる診断や治療を提示すべきだろう(家庭医療学、内科学が臨床心理学と比較してどの程度確かなものなのかは自分にはよく分からないので、筆者が導き出したニアリーイコールの関係が家庭医にも当てはまるかと問われるとなんとも言えない)。しかし、例えば、認知症がある不安の強い患者に対して、本人には「不安に聞く薬です」と伝え、家族には「これは砂糖です」と伝えてプラセボを処方したことがある人は自分以外にもいるのではないだろうか?この場合、この説明と行動はエビデンスには基づいていない。この場合、アロマを介しているわけでもないし、パワーストーンを介しているわけでもないものの、「医師が謎の粉を飲むを症状が良くなると断言している」という一種のミラクルストーリーを患者に与えている点では、野の医師とやっていることはあまり変わらないのではないだろうか。実際に本書でも、「プラシーボ」効果とミラクルストーリーを語る野の医師の構造が似ていることが指摘されている。
 参加者の中には、実際に沖縄に住んでいて、野の医者たちをよく知る人もいた。彼らからは野の医者にずっとかかっていたことで悪性腫瘍が見逃されていたネガティヴな体験が語られた。確かに、身体疾患の除外を行っていなければ、体調不良を訴える患者の中に一定数本物の身体疾患患者が紛れ込むのは当然なので、そのようなことが起こり得ることは容易に想像がつく。しかし、家庭医であれば、ある程度内科的に疾患を除外した上で、継続して患者に関わっていくことができる。これは野の医師たちと比べると圧倒的なアドバンテージで、やはり家庭医は”まっとうな”healerになれるポテンシャる秘めているではないかと思うのである。しかも、医師というだけで特に田舎では信頼されすいという点も有利に働くだろう。以上から家庭医はhealerになるにあたって、かなりのアドバンテージを持つのではないか、と思うのである。

以下藤沼先生がスライドで出したDiscussion pointについて

  • プライマリケアにおけるHealing体験

 「先生の顔を見ることができてホットした」という患者側の体験だけではなく、Reflectionを通じたWounded residentのHealingついての意見が多かった。以外と傷ついていないことに気づいていないresidentも多いので、意識的に問いかけることの重要性などの意見があった。自分が研修をしたプログラムが比較的おおらか(あまり濃密なメンタリングは受けた経験がない)ことと、指導医となってからも自分の常勤先で専攻医をティーチングした経験がないので、このあたりについては自分の知識や経験のなさを感じた。
 自分が気になったのはどなたかが言っていた在宅医療って医師にとって結構癒しの現場になっているのではないか、ということである。自分は専攻医のときに100床規模の病院で、1年間ひたすら高齢者を見続けたことがある。これが非常にタフであった。もちろん患者数が多かったということも大変だったし、その多くが誤嚥性肺炎、尿路感染症、慢性心不全とある程度決まりきった疾患でやることもある程度ルーティン化しており刺激が少なかった。しかしながら、その多くが高齢者で毎回毎回どこまで治療をするかという交渉ごとを行うタフさが必要であった。後方病院の専門医の先生とのやりとりも非常にストレスフルで、どこまでを自分の病院でみて、どこからは後方病院に送るのか、患者家族と後方病院の専門医の間に立って調整を行い続けるうちに自分の心は完全に荒んでしまった。そんな中で週に半コマの在宅医療は、癒しの時間であった。田舎の自然に触れて、時には患者を畑で診察したこともあった。病院にいた患者が、自宅に戻って笑顔でいることを確認できることで、無機質だった病棟業務に意味を持たせることができた。あの半コマの在宅医療がなければ、自分はどこかで潰れてしまっていたのではないか、と思うほどだ。自分にとっては患者からのHealing体験と言われるとこのことが真っ先に思い浮かんだ。

  • Healerとしての家庭医は意識的に養成可能か

 自分は専攻医を終えてからもう2年が経過してしまっているが、専攻医の間、特に初めの2年は初期研修だけでは足りなかった医学知識が技術を学ぶので精一杯であった。そこで、ヒーリングのための瞑想や学年が上がるために太鼓を叩くなどの儀式があったら、と考えるとおそらくドン引きして敬遠すると思う。Social prescribingのようにHealing landscapesを構築するような取り組みについても理論としてはあっているものの、何か宗教的なものというか怪しい響きやニュアンスを取り除くような工夫はやはり必要なのではないか、と思った。

以上自分が学んだこと、考えたこと、気づいたことを自分のためにまとめてみた。

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